八郎潟(秋田県)の干拓と新農村建設は、戦後の緊迫した食糧事情緩和および農村の次・三男の就業対策を目的に、昭和32年(1957年)、国家的要請としてとりあげられ、オランダの技術協力を得てスタートした。 「世紀の干拓」 といわれたこの事業は、昭和52年に約850億円をかけて完成、中央干拓 15,660ha、周辺干拓 1,563ha、入植農家580戸のわが国最大の農村建設と、増反による周辺農家の経営改善を図るものであった。干拓規模の大きさだけでなく、世界最高水準を誇る堤防工事をはじめとする干拓地造成と農地整備の技術が高く評価され、さらにはわが国の農村整備技術の嚆矢として評価された。新しい時代の新しい構想による、農村建設の成果であった。
この事業によって八郎潟に誕生した大潟村は、わが国水田農業のモデルとしてのみならず、営農の面でも、農村の構造と機能の面でも、将来のモデル農村として計画された。
営農方式および経営規模は、当初の1戸当たり2.5haから4次入植の10haまでは水田単作で計画され、現在では1戸当たり15haで水稲・小麦・大豆を基幹とする田畑複合の大規模経営(田畑それぞれ7.5ha)が行われている。圃場は大型機械による営農が行われるため、通常の30a区画よりさらに大きな90m×140mの125a区画が基本となっている。これは1,000m × 600m の60haを1つの経営単位とし(後に30haを加え90haに変更)、この1単位を圃場への進入、用排水管理、整地作業などの観点から農道や用排水路、畦畔で区画してできる最小単位(耕区)としている。
もう一つ特徴的なものは、集落計画である。当初は2.5haをもつ個々の農家が列状に道路に沿って並ぶ伝統的な開拓村の形式(列村)で計画されたが、幾度となく検討された結果、集落を1か所とし、これを核として干拓地外の周辺市町村と連絡する放射状の道路と域内循環道路の2種類の幹線が骨格となっている。幹線道路から縦横に支線道路が延び、60ha単位で圃場を区画している。
集落が一つにまとまった結果、住居と圃場は完全に分離された形となり、集落地の中でも中央部の居住区と周囲の農業生産施設区(カントリーエレベーター、機械格納庫、育苗施設等)に区分され、生活の場と生産の場が完全に分離されている。居住区の中央には役場や公民館・学校などの公共施設を集中させたセンターベルトが設けられている。
かくして新村建設の技術の粋を集め、その後のわが国農村開発の様々な新しい課題を提起しながら、大潟村は日本第2の湖、八郎潟の湖底から誕生したのである。