耕して天に至る棚田・段畑

 中世後半以降、自ら直接農耕にたずさわる人々は、自力で 「しんがい」 「ほまち」 などとよばれる小規模な開発を進めていた。主として畑地が対象であり、水田も山間部の急傾斜地や残された湿地など条件の悪いところに限られていた。領主や、後に豪商が行う新田開発とは異なり、豊かな経済力と高度な技術を必要とした計画的なものではなく、ほとんど鍬だけで行えるような小面積の開発であった。
 しかし、このような開発が累積されると、棚田や段畑のようなみごとな景観が出現する。「日本のピラミッド」 (東畑精一『米』) と形容されるほどの壮観は、こうして小農の生存・自立のために開かれ、今日まで継続されてきた偉大な成果であり、いわば 「生きているピラミッド」 なのである。

 「千枚田」 ともよばれる棚田の多い長野県の姨捨山や能登の輪島などの地域には、千枚あるという田の枚数がどう数えても1枚足りず、箕や笠を取りのけたらその下にあったという伝説が共通してあり、田の狭さを物語っている。田の1枚1枚は狭いだけでなく不整形で、水は多分に雨の恵みに左右され、曲がりくねった傾斜のきつい細い道を歩いて登らなければならない山腹にあった。

 愛媛県の宇和島海岸や瀬戸内海の島々に見られる段畑もまた同じく苛酷な条件下にある。海岸から運び上げたリ、開墾時に排除した石を積み上げたりしてつくった石垣で地籍上の1筆を十数枚の畑に画し、なかには畑の幅よりも石垣が高いものも珍しくない。宇和島周辺はイワシ網漁が盛んで、宇和島藩の奨励のもと、新漁場の開拓→食糧確保のための段畑の造成→新村の建設(定住)という過程を経て拡大した。特に幕末から明治年間のサツマイモの導入を機に、開発の最盛期を迎えた。サツマイモは干魃・風害に強く、つるが繁茂して土壌侵食を防止することから、冬作の麦とともに自給作物として最適であった。これ以降、櫨・桑と商品作物の栽培を経て、現在は柑橘園となっている。

 こうした生存のための努力は、文書で記録されることも少く、歴史にも多くは残らない。しかしながら、小農が自らの手で猫の額ほどの小さな耕地をこつこつと開いていった軌跡が土地に刻みつけら、地域の生存の基盤として、「耕して天に至る」 壮観を出現させているのである。