近世用排水システムの結実,見沼代用水

 もともと見沼は、現在の埼玉県浦和市と大宮市の東部に存在した大きな沼沢であり、上流の排水池であると同時に下流の用水源であった。寛永6(1629)年、伊奈忠治が八丁堤により嵩上げし、用水溜井として確立した後、ここから東縁用水と西縁用水を開削して下流の新田開発が進展した。しかし八丁堤の築堤後100年を経た享保期には、耕地の開発は極限に達し、用水・排水をめぐる見沼溜井上・下流の利害対立の矛盾は、貯留量の増加ではもはや抜本的に解決できなくなった。

 そこで、見沼を干拓し新田を拓き、十数里におよぶ大用水路の建設により用水問題を一挙に解決する大構想が実施された。建設には将軍吉宗の命をうけた紀州流の井沢弥惣兵衛が当たった。享保13(1728)年8月、このプロジェクトでは、利根川の元圦、柴山の伏越、綾瀬川の架樋、東西縁用水と芝川を結ぶ閘門式運河(通船堀)など独特の技術が発揮され、もとの溜井(見沼)の縁辺に用水路、中央に排水路を設ける干拓方式もとられた。これにより、見沼のほか干拓新田2,000町歩(2,000ha)、用水供給12,600町歩が実現したが、驚くべきことに着工後半年間でほぼ全形態を整えた。
 見沼代用水は、干拓された溜井の代替用水として「代用水」の名で呼ばれるが、単なる代用水ではない。豊富な利根川本川に水源を求めて、不足する用水を供給し、安定させ、同時に排水路を整備することにより、関東平野中部地域の既成の用排水系統を再編成し、池・沼の干拓を行うという、大きな意味をもっていた。


 この用水の完成により、旧利根川と旧荒川の三角州地帯では、関東流による葛西用水系統に紀州流による見沼代用水系統が重なり、微高地に開削された見沼代用水の余排水が低位部の古利根川に流出し、葛西用水の水源として機能を果たすという、じつに大規模かつ合理的な水利用の反復形態が確立された。
 現在この2大用水は、周辺の用水とともに利根大堰のもとに合口され、農業用水としてはもちろんのこと、東京都へ上水を送るなど新たな使命をも担いながら、流れ続けている。